東京都知事選 音楽の本質ってなんだろう

いやあ、明日はいよいよフォルラン来日ですなあ。

ワクワク。

東京都知事

誰になっても困ったもんだなあと思っていたのだが、終わってみれば、当選者以外の投票数も含めて、わりと納得感のある結果がでて、なんとなくホッとした気分だ。

一周回って、なんだかんだ言っても、日本人ってそこまで愚民でもないし、日本の民主主義って、それなりに機能しているよなあと最近は思えるようになった。

山本太郎みたいなのがたまに出てきちゃったりするのは、民主主義のコストみたいなものだとわりきってしまうのがいいんじゃないでしょうか。

「無用の用」とか、「車のハンドルには『遊び』の部分が必要」とか言いますし。

後は、舛添がちゃんと任期を全うできるかどうかだな。

音楽の本質

偽ベートーベン事件の話の続き。

この事件で面白い、というか、興味深かったことの一つに、この人の作った「HIROSHIMA」で、感動した人が結構いたという話。

これを「どうせ、こういう人たちは、音楽をブランドとかレッテルで聞いているだけで、純粋に音楽を聞いて感動していたわけじゃないんでしょ」と切って捨てるのはたやすいのだけれど、それってそんなに悪いことなのか。

音楽というのは本当に「純粋に」聞かないと理解したことにならないのか。

ブランドやレッテルによって感動がプラスαされるっていうのは、むしろそちらのほうがよほど普通のことで、それを「音楽がわかっていない、これで感動するのは間違った感動だ」とするのは必ずしも正しくないのではないか。

確かに、ラジオや有線で偶然初めて聞いた曲を「いい曲だなあ、誰のなんて言う曲だろう」っていう風に思うこともあるにはあるけれど、普段自分たちが聴く曲の大部分は、聴く前から「自分の好きなアーティストの最新曲」であったり、「全米オリコンチャート○週連続1位」とか「クラシック界の巨匠○○の作品」、「誰々さんがすごく好きだと言っていた曲」などなど、予め何らかのレッテルが貼られた状態で聞いて、そのレッテルに多少なりとも影響されているし、そういうストーリーも含めて音楽なのではないかと言う気がする。

逆に「AKB48の曲」っていうだけで、AKBが嫌いな人や普段アイドル歌謡を馬鹿にしている人なら、たとえその人好みの曲であったとしても、なかなか好きになれないっていうことも普通にありそうだし。

映画音楽やゲーム音楽、アニメソングなんかだって、もちろん曲だけ聞いて好きになるケースもないではないだろうけれど、大部分の人は元々の映画なりゲームなりアニメなりの作品を楽しんだ時の思い出込みで、評価しているだろうし、それなしでそこまで曲に思い入れを感じたりすることはないだろうと思う。

で、なにが言いたいかって言うと、「HIROSHIMA」で感動した人も「広島のために書かれた曲、耳が聞こえない人が命がけで作った曲」っていうストーリーを込みで聞いて、それぞれ自分なりにいろいろなものを補完して味わって感動したのだから、たとえ後から、実際は作曲家本人が書いたものではなく、耳が聴こえないのも嘘で、もともと広島となんの関係もなく書かれた曲だったとしても、その時、その曲で感動したっていうのは、別に間違っていないし、その人にとってはやっぱり名曲だったということでいいし、曲自体もをそのひとなりに理解できていたということでいいのではないだろうか、と思うわけだ。

まあ、騙されたと知った後、騙した人に対して、どう感じたかっていうのはまた別の話ではあるけれど。

 

ここらへん、絵画とか現代美術の鑑賞とかにも通じるところはあるけれど、「なんの予備知識も先入観も全くない純粋な子どもが、すばらしいと思うものだけが、真にすばらしい作品なんだ」っていうのも一つのものの見方ではあるけれど、それはそれであまりにも極端で、素直に賛成はできない。

「背景のストーリーがわかるからこそ、理解できて、すばらしいとわかる」作品もまた確実に存在するし、その作品や鑑賞の仕方に関して、優劣がつけられるものではないと思うのだ。

つまりはそういうことだ。